チベットで開催できないミス・チベットコンテストとは?

 

今年のミスチベット・コンテストが始まりました。

ミス候補がダラムサラ(インド北西部、チベット難民社会の中心)に到着し、6月3日から5日にかけてコンテストが行われます。

 

チベットで開催できないミス・チベットのコンテストを描いた映画

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ドキュメンタリー映画『ミス・チベット:ビューティ・イン・エグザイル(原題) / Miss Tibet: Beauty in Exile』は、中央チベット政府(チベット亡命政府)のあるインド領ダラムサラで、2002年から毎年開催されている「ミス・チベット」のコンテストに、米ミネアポリスに住むチベット人の祖父母を持つ少女テンジン・ケチェオが参加し、彼女を通してコンテストの模様と中国の支配するチベットの現況を描いた作品です。

ノラ・シャピーロ監督とミス・チベットの参加者テンジン・ケチェオが語った記事があります(シネマトゥデイより)。

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アメリカ人のノラ監督がチベットに興味を持ったのは大学で国際関係を学んでいた際、「ダライ・ラマ14世の書物を読んで亡命政府を知り、ドキュメンタリーを製作する前からチベットには影響を受けていたの。その後、子供が出演するシアター・カンパニーを題材にしたドキュメンタリーの撮影を通して劇作家と知り合ったの。その彼女がチベットを題材にした舞台劇を執筆していて、彼女によって、よりチベットへの興味が湧き、彼女の舞台劇を発展させた形でこのドキュメンタリーを製作することになったの」とチベットへの長年の思い入れがあったようだ。

テンジンは育った環境について「わたしの祖父母はチベットで暮らしていたけれど、(中国支配のため)インドに亡命したの。わたしが子供の頃、彼らは、あの時亡命できなかったら、隣人のように亡くなっていたと語っていたこともあった。でもそれ以降は、あの環境を思い出したくないのか、チベットでの出来事を語ることはなかった。インドで育った両親のもと、わたし自身もインドで生まれ、7才の時にチベット人の多く住むミネアポリスに移住してきたの」と明かした。

この映画は、海外亡命したチベット人の子孫が、チベット文化の伝達活動をし、よりチベットへの興味を駆り立たせてくれます。

世界中で注目を集め、2015年様々な賞を受賞しました。

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オーガナイザー:ロブサン・ワンギャルという男

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ミスチベットを主催するのは、レインボーチルドレンのメンバーでもあるロブサン・ワンギャルです。

メンバー紹介ページより)

中央チベット政権(CTA)公式記者、AFP通信記者でありながら、オーガナイザーとしてミス・チベット、チベット映画祭、チベット音楽祭ミスヒマラヤコンテスト等を主催し、チベットの国際的認知向上に向けて活動する熱い男です。Tibet Sun公式サイト

2012年に初めてダラムサラを訪れた時からの友人でもあり、レインボーチルドレンの活動を様々な面から支えてくれています。

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ロブサンは、チベット難民社会では誰でもが知る有名人です。派手なスタイルとおちゃれけたキャラクターから誤解されることもあります。数年前に日本のバラエティ番組で面白おかしくディスられたことがありましたが、真実は異なります。ある時、こう語ってくれました。

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「ダラムサラから国際的なイベントを発信することで、チベット文化の素晴らしさを世界中に知ってもらいたい。ミスコンテスト開催はチベット民族の女性たちが国際社会へ進出していくために、チベットの女性をエンパワーする目的なんだ。それらのことがチベット問題を解決することへつながれば。」

 

内面のうつくしさを競うコンテスト

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世界的にミスコンを非難する風潮もありますが、ミス・チベットやミス・ヒマラヤは女性の外面だけを競うコンテストではありません。

心の幸せを追求するチベットの文化として、内面的な美しさを競うコンテストと説明したらよいでしょうか。一般的な教養だけでなくチベット仏教の知識や、地域社会に貢献してきた実績、自分自身に対する自信をも問われます。知性やしなやかさという女性の内面的な美しさを競うのです。

スタンフォード大学教授のジル・ヘルムズ氏は人の美しさとは、親切や思いやり、内面の温かさ、逆境に立ち向かい克服する力によって決まるものだと発表しました。

美しさ、魅力というのは、内面から出てくるものなんですね。

  • 昨年の受賞者のコメントを紹介した記事です。

選ばれたミス・チベットは内外に向けて、チベット文化を発信する広告塔となります。過去は親善大使的な活動をヨーロッパで行ったこともありましたが、遠征予算などの費用が高額となるため、近年は思うような活動ができていません。

というのも、これらの国際イベントはすべてロブサン・ワンギャルの私費で賄われているのです。一部の個人スポンサーと、クラウドファンディングで資金を集めていますが、すべてが赤字です。

それでも、決して発信し続けることを止めないロブサン・ワンギャル。

彼のチベットを愛する心と、その活動を今後も応援していきたいと思います。

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最近は、あらゆる人を幸せに導くハピネスワークショップを世界各地で開催したりもしています。

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今年の春は、スタディツアー参加者に対してワークショップを開いてもらいました。

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ロブサンの幸せの波動が世界へ広がっていきますように。

 

 

 

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チベットは日本の恩人って本当?

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遥か海を越えた両国の友好には、歴史の裏に隠された2つの知られざる物語があった―。

この冬上映中の<日本・トルコ合作映画>海難1890では、日本トルコ友好125周年を迎え(2015年)、日本とトルコの友好が描かれています。

そんな深い絆の物語が、日本とチベットの間にもあったことをご存知ですか?

第二次世界大戦でチベットは日本を守った?

第二次世界大戦中はチベット政府は日本に同情的な立場から、羊毛を経済制裁で苦しむ日本へ輸出し、連合国側の補給路確保要請もチベットは中立を通し拒否した。しかし後に米英ソの後ろ盾で日本に対抗した中国が国連の常任理事国になった事で、後に中国によるチベット侵攻は国連で議論されなくなる。(ウィキペディアより)

まず、太平洋戦争の開戦前、経済封鎖され困窮していた日本に「同じ仏教国が苦しい思いをしているから」と、チベット政府は「大量の羊毛」を支援してくれました。これは義侠心に駆られた一部の富豪が個人的に行ったことで、チベット政府は関係ないとする説もあります。しかし、現在も世界的な自然災害などで日本から義捐金を送る時などは、多くが民間の日本人としての行動です。チベットから日本に対するひとつのご恩だと考えます。

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ダライ・ラマ13世

そして、第二次世界大戦の時、連合軍側の「物資を中国に送るためにチベットを通過させてほしい」との要求に対して、日本との関係を重んじ、ダライ・ラマ13世は最後まで中立を貫き拒否しました。これは中立という立場を守ったのであり、日本を守るための行動ではなかったとする説もありますが、果たして事実はどうでしょうか。今は亡きダライ・ラマ13世に聞かないと分からないですが、次の章でもその背景が推察できます。友好国である日本を守りたい、しかし連合国に敵対する軍力もない、せめて中立を貫き連合国側に加担することを避けたかった、というのが事実ではないでしょうか。

しかし、あの大戦の状況の中で連合国側に対して中立の強い態度を示した国が、アジアの中で他にあったでしょうか。その殆んどが欧米の植民地とされその支配下に置かれていた時代に、それを覆していった日本に対する中立固持は、友好の証しだと考えることができると思います。

また、この中立を貫いた事実が、やがてチベットに悲劇をもたらす結果となったとも言われています。

チベット国旗は日本人が作った?

チベットに滞在していた日本人チベット研究者・青木文教は自著『祕密之國 西藏遊記』(内外出版、1920年(大正9年)発行)において、チベット軍の司令官と青木が戯れとして、それまでの軍旗でも使われていたチベットの記号(雪山・唐獅子・日・月)と、大日本帝国陸軍が軍旗として考案・使用していた旭日旗に擬似する意匠(旭日)を組み合わせ、新しく図案を作ったものがたまたま新しい「軍旗」として採用されたと記している。(ウィキペディアより)

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チベットの国旗は旗の正面に位置する白い雪山の前面で、2頭のスノー・ライオン(唐獅子)が 3つの宝石を支えているものです。民族独立を果たしたいという願いと、日露戦争や日清戦争での日本の活躍に憧れを抱いていた、ダライ・ラマ13世の信頼が厚かった青木文教が、日本の旭日旗 のデザインに着眼してチベットの国旗を作成したとされています。

青木 文教  旧名・仏教大学(現・龍谷大学)在学時の1910年(明治43年)、チベットに派遣され、1912年(大正元年)にラサ入りを果たす。チベット仏教を研究し、主にチベットの市井で多くのチベット仏教に関する文物を収集した。雪山獅子旗のデザインもする。そして、文教がチベットを離れる最後の一夜はダライ・ラマ13世と就寝したなど、深く現地に溶け込んだ。(ウィキペディアより)

ラサ憧憬: 青木文教とチベット 高本 康子 (著)
ラサ憧憬: 青木文教とチベット 高本 康子 (著)

その姿から雪山獅子旗と呼ばれるチベット国旗の現在のデザインは、日本人によるものだったのですね。そして、青木文教とダライ・ラマ13世との親交の様子を窺うと、前章でその後に中立を貫いたダライ・ラマ13世の想いが浮かぶような気がしませんか?

日本人とチベット人だけが持つ遺伝子について

日本人とチベット人だけが持つ遺伝子について

最後は以前に書いたこの記事です。2000以上のいいねを頂いている記事ですので、一度は目にされたことがあるかも知れません。羊毛のこと、連合国軍の要請に対して中立を貫いたこと、国旗のこと、すべては兄弟の遺伝子をもつ日本とチベットの魂の物語のように思えます。

友好や、絆という関係よりもっと深くて強い、魂のつながりが日本とチベットをつないでいるのだと思えてなりません。

そこにあるのは、平和の遺伝子。

皆さんも、ふと懐かしく思える顔や風景に会いに、チベットやダラムサラを訪れてみませんか?

日本人として生まれたからこそできることに、気付くかも知れません。

 

日本はチベットに恩がある。これもチベットの利他のこころでしょうか。アメリカや中国という大国にも屈せず、平和的解決を貫く姿。Rainbow Children の活動もその恩返しの一助となればと思います。

Posted by レインボーチルドレン(特定非営利活動法人Rainbow Children Japan) on 2013年5月1日

 

チベット960

インド首都デリー、スラム一掃に最低5000億ルピー…州予算の1.5倍

 

こんなニュースが飛び込んできました。

デリーのスラムを一掃するためには、5000億ルピーという州予算の1.5倍におよぶ予算が必要であるとの試算が発表された。

同州の昨会計年度の支出は3500億ルピーであった。

デリー都市シェルター改善局は既にこれに関する詳細な報告を都市開発機構に対し提出している。

同市内では675ヶ所のスラム地区に30万世帯以上が拡がっており、以前にも同様の計画が提出されたことがあったが実現していない。

2008年にこれらの世帯を移住させるための住宅建設が始まり、2年前には1万4千世帯分以上が使用可能になったにも関わらず、バワナにある居住区に8ヶ所から266世帯が移住したにすぎない。

現在も4万5千棟の住宅が建設中であるとタイムズオブインディアは伝えている。

レスポンスより http://response.jp/article/2015/04/14/248963.html

 

デリーのスラム移転計画に、1兆円

5000億ルピー、現在の円に換算すると約1兆円。他にも社会インフラ、医療、教育など課題が多いインドで、実現可能な計画なのかどうかは分かりません。既に2008年より移転建設が始まるも遅々として進まないこのプロジェクト、果たして何十年かかるかも検討がつかない。もしかすると何十年かかっても、何も変わっていないかも知れないという危機感を覚えます。

以前お伝えしたインドネシアの国家スラム撲滅プログラムの記事では、インドネシア政府が予算384兆ルピア(日本円換算約3.5兆円)をかけて、3286ヶ所のスラムを2019年までにゼロにするという意欲的な計画を紹介しました。こちらは、予算の80%を地方や企業に求め、期限を5年に設定しています。ゴールの設定がされており、より現実的に進んでいくかも知れない。

 

デリー市内に675ヶ所30万世帯のスラム

今まで、デリーにある大型スラムは約50ヶ所と聞いていましたが、小さな数十世帯のコロニーも含めると実に675ヶ所もあるのですね。レインボーチルドレンが支援するグジャラティスクールのあるスラム(シャディプール、約5000世帯20000人)は、デリーでも最大規模です。同じく世帯4人平均で計算すると、デリー市内には約120万人がスラムに暮らしている計算になります。果たしてそれだけの移住用の住宅を準備することは可能なのでしょうか。また、計画が延びるほどスラム人口は膨らんでいく傾向にあり、都市への人口流入が生み出す都市型スラムの問題はとても深刻です。

 

シャディプールのスラムの移転計画

シャディプール在住のデリー支部長サージャン、そしてグジャラティスクールのネルー先生からの情報では、(シャディプール)スラムの土地は企業への売却が完了しており、移転用の住居も建設されているらしいとの情報です。「らしい」とは、行政からスラム住人にそういった説明もされておらず、移転計画のどの段階にあるのかをまったく知らされていないことを理由としています。一度グジャラティスクールの増築案を持ちかけた時も、このよく分からない移転計画が行く手を阻みました。

移住用の住宅が完成した場合、すぐに移転は始まるのでしょうか?

 

1万4千世帯分以上が使用可能、でも、、

文中には2年前に1万4千世帯分以上の移住用住宅が準備できたのにも関わらず、わずか266世帯しか入居していない事実が伝えられています。理由は何でしょうか?

デリーのスラムでは、地方から仕事を求めてやってきて、高い賃料の一般的な住居に住むことが不可能なのでスラムに住み込むという図式があります。インドの経済成長とインフレは、異常な地価上昇や賃料の上昇を招き、とても出稼ぎの収入では入居できない水準にあります。

そこで、政府から移住用の住宅が提供されるというと一見ありがたい話に聞こえますが、問題はそんなに単純ではありません。場所です。当然地価の高い中心部に住宅が準備されることは少なく、郊外となるでしょう。そうなると現在の仕事と切り離されることになるのです。それが移住を阻む原因のひとつだと考えます。

スラムの人々は元々仕事を求めて地方から移住してきて、現在は何らかの仕事についています。シャディプールのスラムの例では、ラジャスタン地方出身だとダンスや太鼓が得意なのでそれらの職業を、ビーハー出身だとリキシャ運転手や髭剃り、ハイデラバード出身だと物乞いや路上商売、マハラシスター出身だと主に家政婦、ラックナウ出身だとごみ拾い、というように職業カーストに応じた仕事に就いています。

 

グジャラティスクールはどうなる?

また、子どもたちの学校の問題もあります。スラムコロニーが取り壊されると、現在のグジャラティスクールも無くなります。もともと認可学校ではないので、移転先に新たな学校が準備される訳ではありません。

スラム移転は、住環境がコンクリートの小さな部屋に詰め込まれるだけでは、何も変わりません。衛生は改善されるでしょう。でも教育の環境は変わらず、そのスラムを生み出した格差問題については変わらないままです。

都市の見た目だけを変えたいという行政側の思惑であれば、問題が見えない化されることでいっそう深刻な問題になりかねません。

グローバル規模で進む人口の増大と、格差が生み出す都市への人口流入、そして都市型スラムの形成は資本主義と貨幣経済が途上国に生んだ構造だと感じます。それは先進国の責任でもあり、我々日本人にもその責任があるのではないでしょうか。

引き続き、できることに取り組んでいきたいと考えます。

 

チョコと男女教育格差の甘くない関係

 

チョコレートの年間消費量の2割がこの日に消費されると言われるほどの日本の国民的イベントでもあるバレンタインデー。日本では女性が好きな男性にチョコレートを贈る習慣は次第に少なくなり、代わりに自分へのご褒美として高級チョコを購入する日となったのでしょうか。それでも、女子にもスイーツ男子にも甘~い一日であることは間違いないでしょう。そんなバレンタインデーの歴史をひも解くと、チョコと男女教育格差に「ある関係」があることが分かりました。 “チョコと男女教育格差の甘くない関係” の続きを読む

チベット難民の大学進学率

 

前回秋にダラムサラの教育省を訪れ、教育大臣から伺ったデータを基に、チベット難民の大学進学率を各国のデータと比較してみました。現在チベットという国家はなく、国連にはデータが存在しません。また、チベット本土(中国・チベット自治区)のデータも存在しないため、インドの中のチベット(チベット難民)のデータで厳しい難民社会の高等教育の現状をお伝えします。 “チベット難民の大学進学率” の続きを読む

インドはITエンジニア大国。でも大学進学率はワースト?!

 

シリコンバレーのITエンジニアはほとんどがインド人。誰もが一度は聞いたことのある話だ。

2ケタの掛け算を暗唱すると話題の「インド式算数」が理由じゃないかと、納得している人も多いはずだ。

数字に強く、英語が堪能な最先端エンジニア集団の国家。

でも、スラムの子どもたちの支援をしていると、どうもイメージが結びつかない。

その理由を探ってみた。

 

コンピューター科学系は断トツの世界トップ

もう一度冒頭の表を全体像で見てみよう。2012年の米国大学院(コンピューター科学系)への留学生数は、12,280名とインドが抜きんでている。2位の中国の7,550名の倍近い数字だ。18位に位置する日本の60名の、なんと200倍以上が留学している。圧倒的な差だ。総数が27,000名なのでおよそ2人に1人はインド人ということになる。おそるべし。

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2012年 資料:GLOBAL NOTE 出典:NSF

自然科学系合計の学位取得者数をみても明らかだ。2010年度は335,576名が学位を取得している。3位の本国アメリカをはるかに超え、4位のロシア以下は比較にならないほどだ。

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2010年 資料:GLOBAL NOTE 出典:NSF

2008年のインド政府人材開発省の発表によると、アメリカにおいては航空宇宙局(NASA)の科学者の中の36%がインド人だ。また、博士号保持者の38%はインド人で占められ、米マイクロソフト社の職員のうち34%がインド人だそうだ。(ちなみに僕の会社の社長もインド人です)

2011年 資料:GLOBAL NOTE 出典:NSF

さらには、医療・健康科学系分野の博士号でも421名と断トツのトップである。米国では外科医の10%がインド人であり、英国では医師の40%以上がインド出身だとされる。これらのデータから見ると、インド人は世界の頭脳だと言っても過言ではなく、特に理系分野では極めて優秀であることがわかる。

その意味においては、チベットやスラムの奨学生が優秀であれば、この分野で能力を伸ばせる環境があるということであり、未来に期待がもてるデータである。おそらく何人かはこの分野へ進むことになるだろう。

 

大学進学率は世界ワースト

しかしながら、現在世界第2位の「12億5000万人」の人口を抱える人口大国である。世界におけるマンパワーは圧倒的であるが、同じように国内の教育事情をボリュームだけで判断すると、実態を見誤ることにつながりかねない。

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2012年G20大学進学率 資料:GLOBAL NOTE 出典:UNESCO

こちらは、G20の大学進学率(短期大学含む)のグラフだ。20カ国中、インド(紫色)は一番下を推移している。世界で97番にあたる24.7%である。政治・経済的には世界20カ国の仲間入りをしているが、教育分野(高等教育)は世界97番でワーストに入るというのがインドの現実だ。(統計152カ国)

主要アジア進学率
2012年主要アジア大学進学率 資料:GLOBAL NOTE 出典:UNESCO

同じアジアで比較してみても、一番下の青色がインドであり、ASEAN諸国に遅れをとっていることが分かる。(グラフが重複し見づらいため、ほぼ同率のカンボジア・バングラデシュ・ミャンマー・ラオスを除外)ただ、 近年上昇してきており10%台だった10年前の数値からはかなり改善したものの、24.7%という大学進学率は決して高くない。4人に1人という狭き門なのだ。ちなみに日本は19位の64.5%である。

 

見えてくる格差社会

断トツの世界トップであるコンピューター科学部門と、世界ワーストの大学進学率が意味するものは何であろうか?それは根強く社会に残るカーストという社会格差と、近年の経済発展による経済格差が相まって生まれている「新たな格差」であろう。生まれた家系と家系によって保証される職業、そこから派生する経済力によって「教育の選択」が決まる構図だ。その構図が世襲され、教育を受けていない親から子へ連鎖が続いていく。そしてそれは経済発展とともに加速しているのだ。恵まれた家庭から私立高校を経てアメリカへ留学する学生は、ほんの一握りでしかないのだ。

また、国自体の高等教育政策が遅れたため、インド工科大学(IIT)等の世界的な名門大学以外で受けられる国内の教育の質が低く、その道をアメリカ留学に求める構図もあるといえる。新しく始まったモディ政権は教育に力を入れる姿勢を見せており、今後の教育改革に期待が高まる。

 

ITはインディアンドリーム

しかし、民主主義のインドでは実力があれば認められる。インディアンドリームも数多く存在するのだ。IT産業はカーストが制定された時に存在しなかった職業なので、職業カーストの影響を受けない。これもインドでITエンジニアが人気を集めた理由のひとつであろう。現在、海外で得た知識や経験とネットワークを駆使し、ウミガメ族として帰国後に起業する若者が急増している。世界のIT技術者に起業したい場所を尋ねたところ、バンガロール、プネー、ハイデラバード、チェンナイと4位までをインドが占め、5位にシリコンバレーという結果だった。

 

レインボーチルドレンが目指す高等教育支援

インドという多重構造社会の中で、政策効果を期待しても格差は広がるばかりだ。多民族、多宗教、多言語、多階層、、行き届くには時間がかかり過ぎる。チベット難民やスラム街の住人という社会的マイノリティにとって、教育機会の損失は人生を左右し、教育機会を得る効果はとてつもなく大きい。

ハングリーであるだけでなく、勤勉でありかつ利他の心をもつ子どもたちは、私から見ても非常に魅力的だ。競争社会で生き抜くだけでなく、「周りによい影響を及ぼせる魅力的な人材」を一人でも多く世界に羽ばたかせたいと強く願う。

自分でコントロールできない慣習や環境という既成の殻を破り、将来の選択肢は彼ら彼女ら自身がもっているのだ。

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*チベットプロジェクトは→ コチラ

*スラムプロジェクトは→ コチラ

次回は、統計数値のないチベット難民の高等教育と、インドにおける女性の進学率について考えたい。

日本人とチベット人だけが持つ遺伝子について

 

チベットへ行くといつも懐かしさを感じます。

チベット人に会うとどこか懐かしさを覚えます。

顔立ちが日本人にそっくりで、こんな人日本人にもいるな~、この人もいるな~、と思ってしまいます。

この写真はレインボーチルドレンのチベット奨学生たちですが、日本人の顔立ちにすごく似ていますよね。

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こちらは、神奈川支部長の未来さんがシェアしてくれた、「Y染色体D系統における日本人とチベット人の共通の起源に関する論文」です。
懐かしさの理由が遺伝子として証明されています。

そして、ここに書かれている「世界で日本人とチベット人のみが高く持つ遺伝子」 が、僕をチベットに引き寄せ、そしてレインボーチルドレンプロジェクトの始まりとなっているような気がしてなりません。

そして、それは平和の遺伝子のようにも感じます。

少し難しい内容ですが、ぜひご覧になってください。

 

コラム ダライラマ法王

(抜粋)

東アジアにおけるD系統の平均頻度は、9.60%であるが、チベット(41.31%)、日本(35.08%)、アンダマン島(56.25%)が高い頻度を示す一方、ほかの東アジアの集団の頻度は、希薄(5%未満)である。

チベット人が持っているより高い多様性というのは、他の集団に比べてチベット人のD系統が非常に大きく且つ影響力のある集団規模であったことが主因である。
チベット人と日本人は地理的に遠く離れた地域に住んでいた。そして、彼らの持つD系統は、2つの異なるサブ・ハプログループに属している。
この2つのサブ・ハプログループはどちらも、網目の細かい星状のネットワーク構造をもっている。それは彼等が、長い期間ローカルな存在であったことと最近、人口拡大があったことを示している。

アフリカでだけ観察されたDE*系統が、チベット人の中に2人見出されたという発見は、D系統の古さの証であり、、D系統が東アジアに最も早く到達した現生人類の移住者の中の一つであることを示している。
さらに、D系統の偏った分布と分岐前の時期の古さは、東アジアの現生人類の集団の中で、D系統が、旧石器時代に他の系統とは独立して移動した集団であったことを示している。

このD系統の推定年代は、これまでに東アジアのY染色体とmtDNAの両方を組み合わせた分析から報告されていたものよりも、より古くなっている。
それが過大評価であるか否かにかかわらず、われわれは同じ方法で、DE*とE系統の分岐時期を計算した。
結果は、27,176年前である。これは、D系統よりはるかに遅いが、これまでの推定(27,800-37,000年前)と一致している。
したがって、D系統の古さは、東アジアにおける人間集団の先史時代の真の姿を反映したものである可能性が高い。

最近の考古学的発見によれば、興味深いことに、約30,000-40,000年前現生人類がチベット高原を探索していたという。その時期は、これまでに示された時期よりはるかに早いが、われわれの仮説には合致している。
後氷期の海面上昇は、最終的には、日本と大陸とを隔てさせることとなった。それは現在の日本人集団の中にD系統が遺物のように分布していることの説明になる。
考古学データは、約30,000年前の日本列島に、現生人類が初めて到達したことを示している。これは、D2系統のわれわれの推定年代(37,678 ± 2,216 年前)と一致する。
同時に、現在のチベット人集団と日本人集団はそれぞれ、おそらくD系統とO3系統の二つの古代の集団が混血して出来上がったのだろうと考えられる。

<2015.5.29追記>
このことに関連する興味深い番組がNHKで放映されましたので、FBページで投稿しました。

【日本人のルーツ】分かってきた縄文人のDNA~NHKおはよう日本より今朝NHKでDNA解析の最新情報が伝えられていました。「簡単に言うと、今、日本にいるD(Y染色体)の男性のお父さんのお父さんをずっとさかのぼっていくと、チベットやア…
Posted by レインボーチルドレン(特定非営利活動法人Rainbow Children Japan) on 2015年5月29日

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教育は未来へのパスポート

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Education is our passport to the future, for tomorrow belongs to the people who prepare for it today. - Malcolm X (マルコムX)

教育こそが未来へのパスポートだ。

明日という日は、今日準備をする人たちのものである。

昨日参加してきたTABIPPO2014大阪。

「世界中で教壇に立ちたい。そのために世界一周旅行をしたい!」

と、熱くプレゼンテーションをした大学生から、マルコムXの言葉を教わりました。

「教育は世界を変える」

レインボーチルドレンの掲げる言葉とのシンクロ。

熱い1日でした。

Vol.67 (7日目)【最終回!『体験』を『経験』に】

2013年12月4日(水) 【最終回!『体験』を『経験』に】

今回初めて訪れたインドという国。

帰国後、その内容を毎日Facebookに投稿していったら、なんとその数60回以上!

実質7日間だけの旅を、2ヶ月間引っ張りまくって、やっと最終回を迎えました(笑)(^^;;

ただ、それだけインドの旅は、私の心の琴線に触れる『体験』が数多くあったという証です。

私にとっては人生の中でもかなり貴重な『体験』であり、自分自身と向き合うきっかけの連続でした。

今回の旅を通して、自分が感じたこと。

それを今回の旅の最後の投稿とします。

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エピローグ

★どんどん行動して『体験』しよう!

今回の貴重な『体験』は、レインボーチルドレンの活動の一環として、行動に移したことがきっかけでした。

それまでは石川さんからの情報を、耳学問として受け取るだけ。

実際に行動に移すと、何かしらの問題点や大きな壁がいろいろと現れてきます。

どんな場合でもそうですが、行動を起こして物事がスムーズに進むことなどほとんどありません。

何かしらのトラブルや困難にぶち当たります。

しかしそんな時こそ、自分が成長するきっかけを与えてくれているもの。

『人生は旅であり、旅は人生の縮図』です。

旅の途中で出会うトラブルや問題を解決する『体験』。

そこで何を学び、何を身につけたかが、自分の人生に活かされていきます。

人生の中で、人は何度も困難な壁にぶち当たります。

その時に、目の前の問題から逃げれば苦しまなくて済みますが、何も自分は変わりません。

反対に、目の前の壁を乗り越えることは苦しみを伴いますが、乗り越えるたびに自身の成長 と『経験』を積み重ねていくのですね。

これから先も、こうした壁は何度もやってくるでしょう。

『体験』から学んだ『経験』を繰り返すことが、人生を生きていくことなのだと私は思っています。

★『体験』を『経験』に変えていこう!

今回初めて『体験』したインドの旅。

この旅は『体験』を『経験』へと移していくことの重要性を、身をもって学んだ旅でもありました。

みなさんは『体験』と『経験』の違いって意識して区別していますか?

•『体験』とは実際にやってみたこと。
•『経験』とは実際の体験から新たに行動することによって、何かしらの知識や技術、価値観を得ていくこと。

私はこう理解して使い分けています。

海外旅行とは一歩日本を出ると、もうそこは非日常『体験』の連続です。

皆さんもいろいろな国へ旅行されたことはあると思います。

綺麗な景色、立派なホテル、美味しい食事、どれも素晴らしい『体験』ですよね。

「あ〜楽しかった!」で仮に終わったとしても『体験』として思い出には残ります。

しかし、自分自身と向き合うきっかけになるような強烈な『体験』は、それは貴重な『経験』へと生まれ変わります。

人生『経験』豊富な人って聞くと、それだけで人として魅力的に感じます。

しかし、人生『体験』豊富な人って聞いても、なんかピンときませんね。

要は『体験』したことによって、新しく何か行動に移すものがあったかどうか。

『気持ちの強さは、行動に比例』しています。

私が60回以上もの回数に分けて投稿できたのは、インドでの数多くの『体験』が私の心の琴線に触れて、自分自身を見つめ直すような『経験』につながっていったからです。

•『体験』で得た『知識』は
•行動に移してこそ
•初めて価値ある『知恵』となり『経験』に生まれ変わっていきます。

『体験に価値を見出した時、その体験は経験になる』のです。

情報を見たり聞いたり、実際に現場で『体験』をする。

その『体験』から学んだことを、実際に行動に移していく。

まさに『体験』が『経験』へと生まれ変わる瞬間です。

その積み重ねこそが、豊かな人生『経験』につながっていくことなのだ、私はそう感じました。

それは普段の日常生活の中での『体験』も同じこと。

毎日繰り返されるルーティンワークは、ただの『体験』に過ぎません。

そうした中で「何でこうするんだろう?」「これでいいのかな?」とちょっと視点を変えて、新たな行動に移すことで気付きを得る。

自ら行動に移したものは、どんな結果であれ、それは自分の『経験』になります。

机上で得た知識は時に役立つこともありますが、やはり自分の実際の『経験』に勝るものはありません。

人生の中で、悩んだり困ったりする問題が発生した時、参考になる情報を収集したり他人からアドバイスを受けることがあると思います。

しかし、問題を解決するために、最後まで励まし続けてくれるのは、過去の自分自身が積み重ねてきた『経験』だけなんです。

って、あの金八先生も言ってました!あはは(笑)(^^;;

そんな豊かな人生『経験』につながる強烈な『体験』をさせてくれるのが、インドという国。

とにかくインドは、遺跡を見て感動すると同時に、様々な人々に出会い、一人の人間を見ては深く考えさせられる所です。

よくインドは『呼ばれて行く国』と言われます。

自分がはっきりとした目的を持っていなくても、何か大きな流れに導かれて気がついたらインド行きのチケットを手配していた、そんな感じです。

私の投稿をご覧いただいてきた方の中で、ご自身の『心の琴線に触れる何か』があった方。

その方は、もうインドに『呼ばれている』のかも知れませんよ!(笑)(^^)

PS

レインボーチルドレンの活動に同行することがなかったら、絶対に体験しなかったであろう貴重な時間を過ごすことができました。

今回貴重な『体験』をするきっかけを与えてくれた石川さんには、ホント感謝してもしきれません。

また、いつも朝の忙しい時間に投稿していたにもかかわらず、私の長〜い投稿に毎日目を通していただいたみなさん、本当にありがとうございました!

記憶力に自信のない私自身が後で見返した時に、当時の状況が思い出せるようにと、備忘録として細かく投稿していた旅日記です。

それにもかかわらずお付き合いいただいた方には、直接会って本当にお礼を申し上げたい気持ちです。

今回のインド行きのきっかけとなったNPO法人レインボーチルドレンの活動ですが、今後も不定期で情報発信して参ります。

これからも応援の程、よろしくお願い申し上げますm(_ _)m

2ヶ月間に渡り、長い長い旅日記にお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました!

インド旅日記 完!(^^)

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Vol.65 コラム ちびっとインド情報【タージマハル(世界遺産)】

Vol.65 コラム ちびっとインド情報【タージマハル(世界遺産)】

2013年12月2日(月) 【タージマハル(世界遺産)】

今回、タージマハルがお休みの金曜日に訪れてしまうという、大失態を演じてしまいました(^^;;

もし行かれる方はこんなことのないように、きちんと計画を立てて行ってくださいね!

★タージマハル(世界遺産)

もし建築物単体を取り出して「世界でもっとも美しい建物は何?」と聞かれたら、「タージマハル」と答える人が大勢います。

やはりその美しさが、あまたある世界遺産の中でも群を抜いているからでしょう。

しかし、タージマハルが有名なのはその美しさだけではありません。

タージマハルにまつわる『愛と悲しみの物語』が人々のこころを捉えて離さず、世界中から多くの人々が一目見ようとやってくるのです。

そんなタージマハルは、デリーから南へ約200km、車で4〜5時間、ムガル帝国の首都として発展した街、現在はインド屈指の観光地として栄えるアーグラーにあります。

市内にはヤムナー川がゆったりと流れ、河畔にはムガル帝国の偉大な遺産の数々が今も残っています。

タージマハルは、白亜の巨大建造物で、白大理石でできた世界で最も美しいお墓と言われています。

それはひとりの皇帝が最愛の妻のために建てた、想像を超える世界最大の愛のモニュメント。

ムガル帝国の絶頂期に帝位した第5代皇帝シャージャハーン帝と、妃であるムムターズマハルの二人の物語から生まれました。

ある日二人は、アーグラー城で行われた宮廷バザールで出会いました。

バザールをのんびり楽しむシャージャハーンは、ガラス玉を差し出してきたペルシアの美しい娘を見て固まります。

二人はこの瞬間恋に落ち、シャージャハーンは父の許可を得ると、すぐにこの娘、ムムターズマハルと婚約しました。

この時シャージャハーン15歳、ムムターズマハル12歳。

5年後、二人は正式に結婚します。

シャージャハーン帝は妃に並々ならぬ愛情を注いでいました。

他の皇帝のように複数の妻を持つことも、ハーレムを築くこともありません。

外征にも必ずムムターズを伴っていきます。

こうして皇帝は、かたときも妃の側を離れることはありませんでしたが、幸福な日々は長くは続きませんでした。

1631年、妃はデカン遠征中、遠征先で14番目の子供を出産した後、36歳の若さでこの世を去ります。

皇帝は妃の死を深く嘆き悲しみ、政治を半ば放棄し、愛する妻の記憶を永遠に留めるために霊廟の建築に没頭。

そして22年もの歳月と2万人以上の職人を費やして、1653年に完成させたのがタージマハルです。

日本では、関ヶ原の合戦が終わって徳川幕府が始まった頃。

その時代に、白大理石を使ってこれだけの建築物を作ったシャージャハーン帝は、ホントすごい皇帝だったんですね。

シャージャハーン帝は、世界各地から取り寄せた大理石や宝石を惜しげも無く使用して霊廟を建築していきます。

その結果、天文学的な予算をつぎ込むこととなり、国家をつぶしかけたと言われています。

一般の熟練工で月5〜6ルピー、人夫は月1.5ルピー程度でしたが、高い技術を持つ職人、例えばモハメッドハニフという職人には月1000ルピーという高給を与えていました。

当時の通貨価値では1ルピーで小麦80kgが買えたそうですから、とてつもない金額です。

たとえ莫大な予算をつぎ込んでも、『すべては最愛の妻のために』というシャージャハーン帝の愛情の強さを示すエピソードですね。

ヤムナー川にたたずむムガル建築の最高傑作、タージマハル。

ここに世界一愛された妃ムムターズマハルは眠っています。

タージマハルの名前の由来は、妃ムムターズマハルのムムが消え、ターズがインド風発音のタージになったといわれています。

タージマハルは南北560m、東西303mの長方形の敷地にあり、ヤムナー川を背にしてそびえ立つ高さ67mのドーム、4隅に立つ高さ43mのミナレットなど、どの角度から見ても均整がとれたその形は、まさにイスラム建築の粋。
※ミナレットとは、モスクに付随した礼拝時刻の告知を行うのに使われる塔のことです。

タージマハルは完全に左右対称な姿を現しています。

天国の川を模したといわれる4つの水路にタージマハルが映り、天地対称にもなっています。

まさに完璧なシンメトリー!(≧∇≦)

イスラム様式のドームを囲む4本のミナレット、壁面に施したインド伝統工芸の象嵌細工、そして四分庭園が奇跡的に融合しています。
※タージマハルのミナレットは装飾的な意味合いが強いです。
4本建てることで、建物全体のバランスの精緻さを強調しています。

地下水の過度な汲み上げにより地盤が沈下し、4本のミナレットが外側に傾きつつあるとの報告もあります。
※大地震時にミナレットが本堂側に倒れ込まないよう、外側にわずかに傾けて設計されているそうです。

しかし、タージマハルの真髄は墓室の中にあります。

壁面に施された植物の文様をよく見てみると、植物らしい優雅な曲線や花びらの絶妙なグラデーションがとんでもなく美しい。

それもそのはず、はめ込まれた一つひとつの石は、水晶、めのう、サンゴ、碧玉、琥珀、るり、カーネリアン、ダイヤモンドといった宝石です。

きわめて精緻な象嵌細工で、宝石の色や濃淡を計算し、植物の形に削り込み、同時にピッタリ合うように大理石を彫って、一つひとつはめ込まれています。

この世に二つと同じものができないよう、シャージャハーン帝はタージ完成後に建築士達の手を切り落としたと言われていますが、真偽のほどは定かではありません。

また、ヤムナー川の対岸に、黒大理石で自らの霊廟を建設し、タージとの間に橋を渡して、妃と永遠に結ばれることを夢見ていたと言われています。

先日投稿したメヘターブバーグですね。

黒タージの建築は、タージマハルがイスラム建築の原則である対称性に則していないことから発したものです。

北岸に同じ形の黒い墓廟があれば南北の対称性は果たされるので、北岸の胸壁と望楼はその基礎工事の名残とも言われています。

しかし黒タージ建築の夢は叶うことなく、のちに実の息子第6代皇帝アウラングゼーブ帝によって、シャージャハーン帝はアーグラー城に幽閉されることになりました。

皮肉なことに、その場所は白大理石に宝石を散りばめた皇帝好みの部屋。

ただ、皇帝は死ぬまで息子に会うこともなく、部屋から出ることも許されなかったそうです。

部屋の窓からヤムナー川のほとりに小さく見えるタージマハル。

晩年の8年間を愛と悲しみの『囚われの塔』で、亡き妃への想いをはせながら暮らしたという逸話が涙をそそります。

皇帝は波瀾万丈の生涯を振り返りながら、ここで息を引き取っていきました。
※アーグラー城を観光する際は、ぜひシャージャハーン帝の気持ちになって、ここから見えるタージマハルを眺めて見てくださいね!(^^)

父シャージャハーンの死後、息子のアウラングゼーブ帝は遺体をタージマハルに移し、棺をムムターズの隣に安置しました。

シャージャハーンはムムターズマハルに寄り添いながら、現在は二人で永遠の眠りについています。

タージマハルは、1983年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、2007年には新・世界七不思議にも選出されました。

新・世界七不思議の最終候補地21の中から、最後まで残って選ばれた7つのうちの1つですから、世界的にもかなり貴重な建築物なんですね。

圧倒的な存在感を漂わせているだけでなく、歴史的にも大変興味深い物語を持ったタージマハル。

タージマハルの歴史的背景を知っておくと、観光する際の楽しみがさらに深まりますよ!

帰国した後も、自らの意志で一生に一度はぜひ訪れておきたい場所だと再確認しました!(^^)

つづく…。

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