2014春☆スタディツアー Vol.11 (3日目)【マニカルニカーガートの火葬場体験】


今回、目の前で遺体が焼かれていく火葬場体験をしてきました。
メンバーの数人は川に浮かぶ死体を目撃しました。

日本では、まず目にすることのない光景です。
いろいろな思いが頭の中を駆け巡ります。

レインボーチルドレンのスタディツアーは楽しい観光地巡りだけではなく、こうした自分と向き合い、自分の中で考えさせられる体験をするのも一つの醍醐味です。

せっかく日常から離れて旅するのだから、強烈な体験をしないともったいない。

インドという国を美化することなく、自分が見て感じたこと、体験したことをありのままの姿をお伝えする。
それがこの旅日記の一番の目的です。
一生に一度、体験するかしないかという出来事。
私がスタディツアーで見た事、学んだ事、考えた事を出来る限り多くの方と共有できればと思っています。
旅日記を通して、日本にいながらその場に一緒にいる気分になっていただけたら幸いです。

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2014年3月11日(火) 3日目-3

ホテルの屋上で優雅な景色と美味しい食事、心癒されるシタールとタブラーの生演奏を堪能する。
食後部屋には戻らず、ホテルからほど近い火葬場マニカルニカーガートへ。

夜にもかかわらず、火葬場の周りには多くの人が、遺体が燃え尽きていく様子を見守っている。
3000年以上の歴史を持つヒンドゥー教最大の聖地は、これ以上ないくらい貴重な体験をさせてもらえる場所だ。
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※火葬場は自由に見て回れますが、写真撮影は厳禁です。必ずトラブルになるそうなので、持って行かないように!写真はネットから拝借しました。

ここに運ばれてきた遺体は、まずシヴァ神を祀るターラケーシュワル寺院に安置される。
死者の耳にシヴァ神がターラカ•マントラ(救済の真言)を囁くことで、生前いかなる大罪を犯した者でも解脱できるとされる。
死者がガンガーの水に浸され、火葬の薪上に載せられると、喪主が火を付ける。
遺灰は火葬場の仕事をするドーム•カーストの人たちによってガンガーに流される。
ちなみに、子供と出家遊行者は火葬されず、石の重しを付けて川の深みに沈められる。
子供はまだ充分に人生を経験していないから、また出家遊行者はすでに人生を超越しているからだと言われる。
ヒンドゥー教徒は墓を持たないが、命日などには祖霊供養を欠かさない。
(地球の歩き方より抜粋)

火葬場は街で最重要の場所。
インド全土から、遺体がここバラナシに集められてくる。

ヒンドゥー教徒にとっては、ここ聖なる川ガンガーで茶毘に付され(火葬され)、灰を川に流し、この世から形を残さずに去ることは、この上なく幸せなこととされているのだ。
この街で死に、茶昆に付されれば必ず解脱できると広く信じられているため、近々訪れる死を待つためだけにここバラナシにやってくる者もいる。

布で巻かれた遺体が、薪の上に乗せられて火がつけられる。
燃え上がる焚き木、徐々に炎に包まれていく遺体、天に向かって登っていく煙と周りに漂う悪臭。
遺体が火にあぶられていく様子は生々しい。
遺体は約3時間ほどで灰になるという。
24時間365日、火葬場の炎は途絶えることはなく、火葬に使用する薪は近くに山積みになっている。
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目の前で生と死が同居する時間が、ゆっくりと過ぎていく。
決して日本では目にすることのない光景を目の当たりにして、いろいろな思いが頭を駆け巡る。
徐々に燃え上がっていく弔いの炎をじっと見つめながら、私は6年前に味わった自分の死の体験を思い出していた…。

(イメージ画像)
(イメージ画像)

私は2008年9月2日、仕事中に突然倒れ、病院のCPUの中で生と死を彷徨っていた。
一命はとりとめたものの入院した翌日から、前日よりも段々と身体が動かなくなっていく恐ろしい体験をすることとなる。

昏睡状態から目覚めた翌朝、ふと感じる身体の違和感。
自分自身の左の手足は、ほとんど動かなくなっていた。
次の翌朝は、左の手足はさらに動かない状態。
何故、動かない!?
昨日までは何ともなかったのに…

新しい朝を迎える度に、徐々に自分の身体の左半分の機能が失われていく。
“動け!”と脳から身体に指令を出しても、一向に反応しない左手足。
昨日は動いていた手足が、日に日に動かなくなっていく。
“そのうち、身体の全ての機能が失われていくんじゃないだろうか”と目に見えない恐怖が襲ってくる。

夜眠りにつくと毎晩、自分の葬式が行われている夢を見る。
幽体離脱をして、上から客観的に自分自身の見ているような感じだ。
火葬場で焼かれて骨だけとなって出てきた自分自身の肉体。
それを、客観的に見ている自分がいる。

意識が現実に戻り、怖くなって目を開けると、そこはベッドの上。

良かった!まだ生きている!

ふと首を横に向けると、自分の横には先ほど火葬され骨だけになった自分の頭蓋骨が!
骨だけになった自分自身と、同じベッドで添い寝をしている自分がいた。
そんな光景が飛び込んできて、恐怖でまたハッと夢から覚める。

毎晩こんな同じ夢を見ては、うなされて目が覚めるという繰り返し。
今のは夢か…と安心するが、実際に動かない左の手足。
これは夢ではなく紛れもない現実なのだ。

毎朝眠りから目覚めると、“まだ生きられているんだ”という安堵感と、“この手足が動かないのは現実なんだ”という、絶望感の両方を受け入れることから一日が始まる。

夜寝ることさえしなければ、身体の機能はこのまま現状維持できるかもしれない。
そう考えて、できるだけ眠らないようにもしてみた。

眠るから朝を迎える。ならば、このまま眠らないで生きていきたい、とさえ思った。
眠るのが怖くなり、結果不眠症にもなった。

毎日訪れる、受け入れたくない悪夢のような現実。
頭の中では受け入れたくないけれども、受け入れなくてはならない現実。
この現実から逃げたいけれども、どこにも逃げられない現実。
しかし、現実から逃げることができなければ、受け入れていくしか方法はない。

人の死とは、こうして逃れられない現実を、少しずつ受け入れながら死んでいくものなのか。
人の生と死は常に隣り合わせになっていて、死とは本来身近なものなのだろう。
初めて死を身近に感じた6年前の体験。
一度死んだはずの私は、今ここバラナシで現実の死と向きあうことができている…

今回インドに来る1ヶ月前に、私は祖母をなくしたばかり。
身近な人間の死と、向き合う体験。
しかしこれはまさに今、自分の目の前の現実の生と向き合う体験でもある。
人はこの世に生まれた瞬間から、終着点の死へと向かって歩いていく。
ほんの1ヶ月前、死を身近に感じたこの時期に、ここガンガーを訪れたことはとても意味のあることであり、奇妙な巡り合わせだと思う。

『人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない』
マルティン•ハイデガーの言葉は、まさに火葬場での体験を伝えてくれている。

火葬場で思いを巡らせていたのは、一時間ほどだろうか。
今回死というものに直面したことで、今を生きる大切さを改めて見つめ直した体験だった。

つづく…

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