ポカラのチベット人居住区へ行ってきました②

インド駐在ボランティアの三輪です。

ポカラを旅した前回の続き、もうひとつのチベット人居住区をレポートします。

もう1つは ”Tashiling Tibetan settlement”

こっちは観光地のレイクサイドから近いため自転車で簡単に行けたり、近くに観光地として有名なDevi’s FallとGUPTESHWOR洞窟があるので、合わせてツアーの一部になっていたりして、観光客がいっぱいいました。

 


Tashiling居住区の入り口周辺。

 


すぐ近くのGUPTESHWOR 洞窟。面白そうです!!


この居住区には500人の人が生活します。

こちらもチベット寺院、集会所、チベット居住区の事務所、学校、診療所、職業訓練校などあります。

もう1つの居住区よりは、、小さいかな、、

ただ、観光客向けの施設が充実しているかなと感じました。

 


チベット寺院の入り口。

 


寺院の中、ダライ・ラマ14世の写真がありました。

 


こっちもカフェ、民芸品売り場あります。

 


チベットカーペット用の生地を作っている職人さん。

 

チベットカーペット用の生地。

 

カーペット売り場、僕も買いました!!

 


歴史展示館あります。チベットからネパールへの移動の歴史等、見れます。

 


チベットの方達の居住区。

 


このTashiling居住区にはレインボーチルドレン奨学金3期生であるPemaさんのお姉さん、Tsering Lhamoさんがナースとして働いています。

彼女にこの居住区を案内してもらいました。

Pemaさんのお姉さんがここで唯一の看護士。

お医者さんはいなくて、週1回、市街地から来ています。

お姉さんはカトマンズ生まれ、インドのマンガロールで大学を卒業した後、ここで働いています。

 


Pemaさんのお姉さん。働いている診療所で。

 

今回ポカラを訪問して思ったのは、インドにいるチベットの人たちより、苦しい状況だな、、ってことでした。

チベットの人達はネパールの中で仕事に就けないので、自分達で仕事を作っていくしかない状況です。

僕は日本人に生まれて、簡単に仕事にありつけて、恵まれているって思いました。

アフリカでも思いましたが、「仕事がない」これが1番の課題だと、やっぱり思いました。。

彼らがもっと観光客を呼び込めれば、、、

もっと良い商品を生み出す力があれば、、

 

生まれた場所、環境が違うだけ、ここまで生活が違う、、

ということを改めて感じました。

日本人に生まれたってだけで幸せだと感じます。

そしてチベットの方々の苦境を改めて感じました。

国がないというのはここまで人を苦しめるのか、、、

と感じました。

 

ポカラ、また来ます!!景色サイコー!


今回はポカラだけの予定でしたが、、、

予定より早くカトマンズに着いたので街中を散策してたら、面白いチベットレストランを見つけました。

カトマンズのタメル地区で一番古いレストラン。

チベットの方が最初にレストランを始めたそうです。

有名な観光スポットのようで料理、美味かったです。

オススメです!!


タメル地区にありました。

 

1971年から。歴史が古いです。

 

Ping shaというチベット料理。旨かったです。


今回は滞在し慣れたポカラへの里帰りのつもりでしたが、自分の知らないポカラの一面を知ることができました。

チベット居住区はチベットの方達の生活を見れる良い場所です!

みなさんも一度訪れてみてください!

 

 

ポカラのチベット人居住区へ行ってきました①

インド駐在ボランティアの三輪です。

昨年10月6日~8日とネパールのポカラに行ってきました。

インドがダシャーラで休みだったので、連休を利用して行ってきました。

以前の職場でポカラに4ヶ月程滞在した経験があり、その時にものすごぐ良い街だと感じて気に入っていたので、是非また訪れたいと思ってました!ってことで里帰りをしてきました。

ポカラはパックパッカーの聖地!

いろんな国の人達が集まって、美味しいお店いっぱい!

人もいい人ばかりでとても落ち着きます!

街から見れるヒマラヤ山脈の景色が最高です。

朝日を見るスポットもあります。

他にもヒマラヤ山脈へのトレッキング、ラフティング、パラグライダー、バンジージャンプ等、アクティビティもいっぱいです。

 

そのポカラで今回は2つのチベットキャンプ(居住区)を訪れました。

”Tashi Palkhel Tibetan settlement” と ”Tashiling Tibetan settlement” です。 ”Tashi Palkhel” は街中から離れたHemjaという地域あり、”Tashling” はポカラの市街地の南にあります。

観光客を積極的に呼び込もうとしていて、ポカラの観光スポットの1つになっています。チベットの方の生活が見れたり、チベットの民芸品が買えたり、チベット難民の歴史が見れるようになっているオススメの場所です。みなさんポカラに来たら是非訪れてください!!

 

さて、最初に訪れたのは ”Tashi Palkhel Tibetan settlement” です。

ポカラの市街地から離れたHemjaという地域にあり、ポカラ街中より標高が高いです。セティ川が近くを流れていて、気持ちが良い所です。

セティ川が近くを流れています。

 

ただ、こんな場所にチベット人居住区があったなんて全く知らなかったです。

僕も以前、何度もこの前の道を通り過ぎていたのですが、全く気づかなかったです。ただよく見れば、チベット文化が感じれらる建物が建っていました。

居住区の入り口?わかりずらい。。

 

ここには約650名のチベット人、150の家族が住んでいます。

チベット寺院、市民の集会所、コミュニティの事務所、小学校があります。チベット難民のみんながここで集まって生活しています。観光地として、民芸品売り場やカフェなんかもありました。

チベット寺院の入り口。

 

チベット人コミュニティの事務所。

 

チベット人の小学校。

 

観光客用?のカフェ。

 

チベット人の集会所。

 

民芸品売り場。

 

民芸品を売って自分達の生活費を稼いでいます。

 

週一回ここでお祈りをします。

 

お祈りの場所からの景色。チベット寺院が見れます。眺め最高です!

 

 

このチベット居住区の人達の生活はとても厳しいです。

小学校は居住区の中にあるのですが、中学高校はポカラの街中の学校へ行っています(車で45分はかかります)。

そして、大学となるとネパール国内では行けず、インドに行くしかないのです。

ネパールでは高等教育を受けれません。

インドへ行くとなると費用も大きくかかってしまい、ますます苦しい状況です。

あとで紹介するペマさん(レインボーチルドレン奨学金3期生)のお姉さんはネパール出身ですが、インドの大学行ってました。。

なるほど、こういう状況なんだなと改めて感じました。

 

さらに難民であるチベットの方々は仕事にほとんど就けず、働く機会がないのです。

自分達の村で野菜を作ったり、鳥を飼ったりして食料を調達してました。

他には、自分達で民芸品を作って売っています。

ただ、この ”Tashi Palkhel” は観光地であるポカラの街中とは違い、ここには観光客がほとんど来ません。そのため民芸品の売り上げもよくないそうです。

僕がいた時も僕をのぞけば観光客は3人だけでした。。。

 

大道路から見える ”Tashi Palkhel” チベット居住区にある建物。

 

それでは、もう1つのチベット人居住区 ”Tashiling Tibetan settlement” へ行ってみたいと思います。

その②へ続く

 

 

【Nepal project その後 & Kid’s camera project in Pokhara②】

 

(レポート:副代表 三村優子)

今回、ネパールでもう一箇所、新たに訪問した場所がありました。
それは、首都カトマンズから西に約200kmの、標高800m地帯に位置するポカラ。
白く輝く山群の峰々、美しい湖が織りなすこの街は、ネパール屈指のリゾート地、トレッキングの基地でもあり、海外ツーリストにも人気のピースフルな場所です。

カトマンズより小型のセスナで約25分、陸路ならバスで5〜6時間です。

雲の上にそびえ立つ、美しい峰々を見ながら

ここポカラには4つのチベット難民キャンプがあり、その中のひとつ、Tashi Palkhiel Tibetan Refugee Campを訪れました。

心地好い陽気の中、タルチョがたなびくピースフルな場所

高台からはモナストリーが見えます

ヤギともよくすれ違います

カトマンズとはまた違う、大自然に囲まれたポカラ

当時、ガイドを務めてくれたひとり、Menkyiは今や一児のママとなり、ご主人の実家に帰省しているところでした。

とてもしっかりしていたミンキー、包容力たっぷりのお母さんの表情になっていました。

温かいファミリーのお宅でホームステイ。そして徒歩1分のところにあるMount Kailash Schoolを訪問しました。

1963年に創設された緑に囲まれた学校。

現在は、わたしたちも地震の後訪れたSnow Lion Foundationが管轄しています。

グラウンドからは魚の尻尾を意味する雄大なマチャプチャレが見えます。

空気を少しお届けします。

この学校には、7つのクラスがあり、下は5歳から上は16歳まで、全部で136名の子どもたちが通い、約7年で卒業します。

学校にはホステルも併設され、そこにはムスタンやマナンなど山間部の僻地に生まれて通学が困難な子供たち68名が暮らしているそうです。

チベタンスクールですが、ネパール人の子どもも一緒にチベット語やネパール語、英語を学んでいます。

翌日から試験が始まるとのことで、先生は準備の真っ最中

ここネパールでも教育についてはインドのチベタンスクールと一貫した考えで、伝統教育と近代教育のどちらも取り入れた教育を行なっています。

今回ポカラを訪れた1番の目的は、キッズカメラプロジェクトの次の候補校を探すためでした。

ネパールではすでに、震災の被害が大きかった、カトマンズにあるSRONGTSEN BHRIKUTI BORDING HIGH SCHOOLの生徒会へカメラを10台寄贈しています。@2015秋スタディツアー

自然豊かなポカラで育った子どもたちの撮る写真は、きっとまた一味違ったものになると確信し、友人のサポートのもと、校長先生にプロジェクトの提案をさせていただきました。

すると、写真部やカメラの課外活動のようなものは特にしていないけれど、子どもたちはいつも写真を撮ることに興味があり、このプロジェクトは子どもたちにとってとても幸せでありがたいことだと大賛成していただきました。

校長先生のTenzin Woser先生。

とても紳士で優しい先生です。

翌日から始まる試験に備えて、子どもたちは帰宅していたので会うことはできませんでしたが、
このあとTenzin先生が10名のキッズフォトグラファーを選出し、報告いただけるお約束になっています。

キッズフォトグラファーが決まったら、またポカラを訪れたいと思います。

来月はいよいよキッズカメラ初の写真展イベントin横浜
そして今年は、写真コンテストにも挑戦していきたいと思っています。

引き続きこのプロジェクトも温かく応援していただけると嬉しいです!

キッズカメラプロジェクトについて
↓↓
http://rainbowchildren.holy.jp/kidscamera

 

【Nepal project その後 & Kid’s camera project in Pokhara①】

 

(レポート:副代表 三村優子)

2017春のインドでのスタディーツアーを終えて、1年半ぶりとなるネパールへ向かいました。

まず最初に向かった先は、首都カトマンズ。
2015年4月25日に発生したネパール地震の際、レインボーチルドレンが緊急支援を行なった首都カトマンズにあるジャワラケルキャンプのことはまだ記憶にも新しいことかと思います。

ネパール地震発生直後のキャンプ

2015秋のスタディツアーで訪れたときは、復興ままならぬネパールに追い打ちをかけるかのようなオイルショックまっただなかでした。


この時、地震直後よりキャンプのガイドをしてくれたリンジン・ミンキー・ドルマと再会しました。

地震で痛々しくひびが入っていたボーダナートのステューパは、再建されとても美しく生まれ変わっていました。朝も夜もこのステューパの周りでの多くの人々のコルラ(巡礼)が行われています。

昼のステューパ

夜はライトアップされ、漂うお香の香りと、マントラの響き、多くの巡礼者と共に

今回の2017春スタツアでは、デリーでの奨学生ミーティングでこのキャンプ出身であるペマちゃんと再会した翌日、ペマちゃんの実家を訪れ、懐かしい家族と笑顔の再会を果たしました。

2017春スタツア、デリーでの奨学生ミーティングにてペマちゃんと

久々の再会、ペマちゃんファミリーが温かく迎えてくれました。

チベタンラグのチャリティ販売企画で携わった、ペマちゃんママが働くハンディクラフトセンターは、倒壊の診断を受けたのち、取り壊しが始まっていましたが、今やすっかりとさら地になっていました。

その代わり、仮設の工場で今もお母さんたちが元気に機織りしているとのことでした。

ペマちゃんのパパとママ。

ふたりともお元気そうでなによりでした。

ペマちゃんママお手製のポテトモモをご馳走になりました。

そして、ペマちゃんの妹が通うAtisha schoolの仮設校舎は、今や新校舎に変わり、子供たちは元気に学校に通っていて、当時のガイドをしてくれたひとり、ペマちゃんのお姉さんRinzinは今もこの学校で先生をしているとの嬉しい報告がありました。

つかの間の訪問ではありましたが、この一年半での復興への道のりのひとつひとつの軌跡を垣間見ることができました。

 

「復興への願い、伝統のはたに織り込んで」

 

7月8日、私はカトマンドゥ市内のチベット難民居住区にある機織り工場、Jawarakehru Handcraft Center (JHC)を訪れました。チベット難民の女性たちが、チベタンラグと呼ばれる伝統的なラグを生産している現場です。1年前、レインボーチルドレンを通して10名の日本人がチベタンラグを注文してくれ(日本より合計20枚)、1年がかりで制作されたラグが、先日彼らの手元に届きました。この日はそれぞれの購入者が伝えてくれた使用の様子や喜びの声を、生産者であるチベットの女性たちに届けに行ったのです。

JHC 門
JHC 門

JHC 門看板
JHC 門看板

 

工場に入った時、通路を挟んで2列に並べられた織り機の前で、20名ほどの女性たちが機織り作業をしていました。人の背よりも高い機織り機、床に転がった色とりどりの糸玉、糸を織り込む規則正しい音、職人の仕事場の匂い…その場にある全てのものが特別な雰囲気を醸し出していました。それでいて、不思議と心が落ち着いたのを覚えています。

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購入者からのメッセージをまとめたスライドを見せる時、女性たちは作業を中断して私たちの周りに集まってくれました。案内をしてくれたレインボーチルドレンの奨学生ペマと、工場のマネージャーがチベット語で説明してくれます。購入者の自宅に敷かれたチベタンラグの写真を指差したり、メッセージの一言一言に聞き入って笑顔で拍手をしてくれたりする様子を見て、私も温かい気持ちになりました。

ペマによる説明
ペマによる説明

 

  • 説明に使用したスライド(クリックするとポップアップした画面から矢印でスライド閲覧できます)

 

実は、現在女性たちが作業をしている場所は仮設工場です。2015年4月にネパールを襲った大地震は、チベット難民キャンプの産業を支えていた機織り工場に甚大な被害をもたらしました。地震によるダメージで建物は倒壊寸前となり、危険すぎて中に入れない状態になりました。チベット難民を冷遇するネパール政府は、チベット難民キャンプに一切の支援をしていません。海外からネパールに集まった災害寄付金や物資も、チベット難民の元には全く届かないのだそうです。
「自分たちで生活の糧を確保するしかない」と、女性たちは危険を承知で工場に立ち入り、20数台の機織り機を持ち出したといいます。

毛糸(紡績中)②-min 工場内-min 工場内⑤-min 工場内③-min

本来の工場は現在、取り壊し作業が進んでいます。取り壊しにかかる資金は、工場自体の廃材を建設業者に売って捻出している状況で、立て直しにはさらに約6,000万円がかかります。金額が大きいこともあり、資金集めは想像以上に難航しています。いつ本工場を再建できるのか、見通しは全くついていないといいます。

倒壊したメイン工場
倒壊したメイン工場

倒壊したメイン工場 サイドから
倒壊したメイン工場 サイドから

取り壊し中の工場
取り壊し中の工場

 

どの女性もチベット難民であり、子をもつ母であり、チベットの伝統を守り伝える職人です。倒壊寸前の工場から命がけで機織り機を運び出し、仮設工場で懸命に作業する凛とした姿。優しく温かく私たちを迎え入れ、購入者からのメッセージを喜んでくれた明るい笑顔。強さと優しさを併せ持ったチベットのお母さんたちの心と、その心が守り続ける伝統産業に、頭の下がる思いがしました。
JHCは、ネパール政府から一切支援を受けられないチベット難民の生活を支える、チベットの伝統技術を守るという点で、なくてはならないものです。1日も早く工場が再建され、チベットのお母さんたちとその家族に震災前の生活が戻ることを願わずにはいられません。

毛糸(染色前)-min 紡績機械-min

【ネパール】チベタン手織りラグ予約注文がやっとやっと完成しました!

 

ご購入いただいた皆さまには、大変長らくお待たせを致しました。日本からの注文20枚がついに完成しました!

昨年4月にネパールでおこった大地震で、50年もの間チベット難民キャンプを支えてきた絨毯工場を失ったお母さんを応援しようと、注文キャンペーンがスタートしたのは6月でした。まもなく1年になります。

M7.8の本震に続いて、5月に頻発したM6クラスの余震と今も続くM4クラスの余震。9月に制定されたネパール新憲法を機とした、インドによる国境封鎖で数ヶ月続いた燃料危機。ネパールの人々は度重なる災害を乗り越えて、ようやく復興のスタートラインに立とうとしています。

予想より半年以上も遅れたラグの完成でしたが、それだけネパールの復興が進んでいないことを物語っているように思います。今回の納品によって絨毯工場のお母さんたちが、再び元気な笑顔を見せてくれることを祈ります。

 

なお、現地での代金支払い、梱包・発送作業を経て、海を渡り日本へ到着します。税関のクリア、皆さまのもとへの発送作業を経て、ようやくお届けができます。あと1ヶ月程度かかると思われますが、日本到着からは最短でお届けしたいと思いますので、あと少しだけお待ちくださいませ。

 

こちらの購入でも応援できます!

 

あれから1年(M7.8ネパール大地震2015.4.25)

 

ネパールを襲った未曾有のM7.8級の大地震から、1年が経ちました。現地では昨日より追悼行事が行われています。

ネパール地震data~Wikipediaより

規模はネパール国内で発生した地震としては1934年ビハール・ネパール地震(M8.1)に次ぐ2番目の規模でした。

震源の断層は首都のカトマンズを含む周辺一帯東西150km、南北120kmに及び、4.1m以上ずれた地域もある可能性があることが判明しました。これは同じ都市直下型地震である兵庫県南部地震阪神・淡路大震災)の約30倍に及びます。

そして、多くの被害を生みました。

国別死傷者数
死者 負傷者 時点
ネパールの旗 ネパール > 8,460 > 14,398 5月15日
インドの旗 インド 78 288 4月29日
中華人民共和国の旗 中華人民共和国 25 383 4月27日
バングラデシュの旗 バングラデシュ 4 200 4月27日
合計 8,567 15,269

現在、震災関連死者数は8,959人へ増加しています(Uniceff)

ネパール2

 

今も続く余震、M4以上が今年に入って27回!

このリストをご覧下さい。日本ではなく、今のネパールの地震発生リストです。翌日で1年を迎える昨日4/24にもM4.2の地震が起きました。専門家によると、これらは昨年の4.25大地震の余震とされています。1年が経過した今でも、ネパールの人々は今なお続く余震に脅かされているのです。

ネパール
ネパール政府Department of Mines and Geology

 

ネパールの現在は?各国メディアより

猛烈な地震は、国中59の地区で9,353の学校に損害を与えました。22,401もの教室は、完全に損害を受けました。14,024の教室は大きな痛手を被りました、そして、18,942の教室は軽い損害を被りました。同様に、およそ1,200人の学生と68人の先生は、地震で亡くなりました。

地震の後、教育省は31の地区で8,000の移行する学習センター(16,000の教室)を建てました。いろいろな国家的および国際的な非政府組織は、いろいろな地区で4,000のTLC(temporary learning center)を設立しました。同様に、いろいろな組織、学生自治委員会、ビジネス企業家その他は、国のいろいろな地域で、24,000の教室を建てました。

赤十字によると、2015年4月25日の地震から1年が経った今も数万にも及ぶ人々は家がないままです。彼らの多くは、家族がない独り身の老人です。

ネパールでは政治の混乱が起きたことから、復興政策を担う復興庁の設置が地震から8か月後までずれ込みました。このため、住宅が全壊した世帯を対象とした、日本円で20万円の補助金が支給されたのは、対象世帯の僅か0.1%程度にとどまっており、IOM=国際移住機関によりますと、今もテントで避難生活を送る人たちは少なくとも80か所で2万6000人余りに上るということです。
さらに、日本を含む各国が住宅や学校などの再建を目的に表明した4500億円余りの支援も、政府の対応の遅れから十分に活用されておらず、国民の不満が強まっています。

その他海外メディアより

干ばつとインドによるひどい6ヵ月の境界封鎖は災害の影響を深めました。それは、料理のガス、燃料と水を見つけるのをより困難にしました。

地震はひどく根強い社会階層の前後関係で生じて、その階層(ひどく根強い社会的な除外)と結びつきました – カースト制度、性、民族性、宗教、年齢、障害、言語や地理的遠さのために差別の歴史で苦しんでいた弱くて取り残されたグループとともに~USA TODAY

地震の前に、ネパールの観光旅行セクターはうまくやっていました。2014年に、約800,000人の観光客がネパールを訪問しました。ネパールは、地震の2か月後にちょうど観光旅行のために再開しました。しかし、猛烈な地震は多くの訪問客を明らかに怖がらせました。そして、観光旅行数字省によると、観光客の数は2015年におよそ30%減少しました。~BBC

地震の前にさえ、幼児結婚は、ここの大きい問題でした。この4月(昨年)から、一部の両親が結婚相手を探せない娘を支えるために夫を捜すことがより一般的になりました。~昨年には、子供たちが大きい都市の仮想奴隷制度で、または、海外で働くために彼らの故郷の村から連れていかれて、人身売買の危険性は非常により大きかったです。~公式には、児童労働はここで違法です、しかし、特に建材の需要が成長している今、私は多くの子供たちが掘っていて、レンガを成形していて、それらを積み重ねているのを発見します。~CBCNEWS

 


 

レインボーチルドレンは地震の翌日4/26に緊急支援を決定し、5月、10月の2回に分けて現地を訪れました。その時のレポートです。

ネパールプロジェクトまとめ >>

 

次回、難民キャンプより、「今」の情報をお伝えしていく予定です。

 

タシデレTashi Delek!Diary fromドルマ

 

ネパール・カトマンズのジャワラケルキャンプより、
今回は、現地のNGOで教育支援活動をしているドルマからのレポートです。

燃料危機が続くネパールでは、街中で薪を使って調理する光景まで見受けられるようになってきました。

ガソリン不足で交通手段も減り、観光客も少ないなか、
寺院巡りをしたある日の旅の思い出。

小旅行の最後に、ドルマが感じたことはどんなことだったか、彼女の素直な感想を送ってくれました☆

 


cafe

This is called Chilancho bihar of Kirtipur.

ここは、キルティプールのチランチョビハールと呼ばれるところです。

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This temple is also affected by recent earthquake..

この寺院もまたネパール地震の影響を受けました。

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Thai Kirti Vihar at Kirtipur ,Nepal

タイ キルティビハール@キルティプール、ネパール

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Karunamaya Lokeshowr Temple at Banepa

カルナマヤ ロケシュワラ寺院@バネパ

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Buddhist praying flags hanged by pilgrims at hill.

丘には巡礼者によってかけられた仏教の祈りの旗が。

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nice view of green field with background of trees to watch…

木々を背景に、緑野の素敵な風景。

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scarecrow placed in farm for protection from crows..( they are potato plants)

農園にはカラスよけのかかしがありました(ポテトが植えられています)

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walked through these roads, had really good journey

これらの道を通って歩いた、ほんとうに良い旅でした。

 


 

わたしは、ネパールでの燃料危機のさなかに旅をしました。そして乗り物不足から、それは目的地に辿り着くための一種の挑戦のようなものでした。
わたしは進んで挑戦を受け入れ、すべての場所を徒歩で訪れました。
広野を抜け、すべての場所に続く道々にそって歩きました。
わたしは、それらの場所に辿り着いたあと、祝福と成功を感じました。
つまりそれは、わたしにとって誇らしい瞬間でした。
(ドルマ)

I did the trip during fuel crisis in Nepal and it was kind of challenging to reach those places due to lack of vehicles. I accepted the challenge and visited all the places on the foot. I walked through fields and along the road all the way to the sites. I felt both blessed and triumphant after being able to reach those places.
In short it was a moment of pride for me.
(Report by Dolma)

 

タシデレTashi Delek!Diary from ミンキー

 

ネパール・カトマンズのジャワラケルキャンプより、ミンキーがレポートを届けてくれました。

地震の復興に向けてやっと少しずつ歩き出したネパールへ、
追い打ちをかけるようなネパール国内での情勢不安。
どのような状況なのか、とても分かりやすく教えてくれました。

そしてレポートは、最後、現地に暮らすミンキーならではの想像もつかなかった視点でしめくくられていました、、!

ぜひお読みください。


 

ネパールは、犠牲者9000にのぼるであろうと言われている4月25日の地震によって深刻な被害を受けていました。

国際援助機関や外国の援助を借りて、国自体は回復し、生活も普通に戻ってきていました。

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現在、インド政府による石油のブロックや政情不安によって、ネパールは最悪の打撃を受けています。
ネパールの南の境界線は全てブロックされていて、インド側からは非常に限られた量の穀物と石油が渡されています。

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新聞によると、もし燃料不足がこのまま続けば、学校や教育機関は、次の2週間は閉鎖を余儀なくされるそうです。

調理ガスの不足により、ほとんどのレストランやホテルは閉鎖しています。

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アメリカ政府は、全てのアメリカ人のネパールへの旅行に、渡航勧告を発令しました。
それは、一番の観光シーズンであるにもかかわらず、ネパールの旅行社にとって収入減を招くものです。

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国連は、地震によって深刻な被害を受けた山岳地域の住宅の再建は、国内の燃料不足によって停止されるだろう、また、このような状況が二週間も続けば食糧危機が起こるだろう、と述べました。
調理ガスが止まって50日が経過しています。

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通りのトラック、バス、タクシーの数はとても少ないです。
人々は、バスの屋根の上に乗ったり、ぶら下がったりして目的地へと向かっています。

地震の被災者、貧しい人々、子供や難民はネパールの現状によってひどく影響を受けるでしょう。

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政府は、救急車や警察車、貯水タンカーなど緊急時に出動する人々にガソリンを供給しています。
全国に燃料の配給システムがあり、
自動二輪車には週3リットル、
タクシーには週10リットル、
公共交通機関には20リットルのガソリン、という感じです。
ネパールどこを見ても燃料待ちの列ができています。

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気象局は、冬は寒くなるであろう、また既にカトマンズでは冷たい雨も降り始めており、丘陵地やヒマラヤの状況は、冬の間は最悪になるであろうと述べていました。

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地震はネパール人を、お互い助け合い、共に立ち上がるように強くしてくれました。
この(物資が途絶えていることによる)閉塞感は環境と人々に非常に良い影響を与えました。
通りには車両が少ないおかげで、カトマンズは非常にきれいになっています。
人々は自分の車やバイクに乗せることによって、お互いに助け合っています。

これが、ここ最近のネパールの近況です。何枚か写真も添えますね。

感謝しています。
Tenzin Menkyi


Nepal had been badly damaged by the 25th April earthquake will the death toll of 9000 lives.
With the help of International Aid agencies and foreign help,country itself was recovering and life was coming to normal.

Now due to political unrest and petroleum blockage by Indian Government life had been hit worst.
All the southern border of Nepal had been blocked and very limited amount of Food grains and petroleum are released by Indian side.

According to the Reputed newspaper Schools and education institution will closed by next two week if fuel shortage goes on.
Most of restaurants and hotels are closed because of Cooking gas shortages.

American Goverment had issued travel warning to all American traveling to Nepal which leads to very less tourist incoming even though it is top tourist season.

United Nation had mentioned that the rebuilding of houses in mountain areas which are badly effected by earthquake will be stopped because of fuel shortages in Country,
food crisis will happen if situation goes like this for two weeks.
Its been 50 days ever since the cooking gas had been stopped.

Trucks,buses,taxis are very less in roads.
People are traveling on top of buses and hanging on buses to reach the destination.

Earthquake victims,poor people,children and refugees will be badly effected by current situation in Nepal.

Government is giving petroleum to emergency service like ambulance,police petrol car,water tankers.
There is quota system for the fuel all over the Country.
3litre petrol for a week for motorcycle.
10 litre petrol for week for taxi
20 litres petrol for public transport
There is queue for the petroleum everywhere in Nepal.

Metrological department had mentioned that the winter will be cold and chill winter rain already started in Kathmandu.
Situation in the hills and Himalayas will be worst during winter.

Earthquake had strengthen the Nepalese people to help each other and rise together.
This blockage had very good impact on Environment and people.
Kathmandu had been very clean with very less vehicle plying on roads.
People are helping each other by giving lift on their cars or Motorbikes.

This is just an updates about what is going in Nepal these days.
I have attached some photos also.

Thanking you
Tenzin Menkyi.

タシデレTashi Delek!Diary from リンジン

 

ネパール、カトマンズのジャワラケルキャンプのリンジンより、卒業式の日の思い出レポートが届きました。

今は被災したアティーシャスクールの仮設校舎で子供たちを教える先生をしているリンジンですが、
つい最近までは学生として毎日を過ごしていました。

震災後の生活に、明るい光を照らしてくれた特別な1日の思い出。
彼女の学生らしい素直な想いが伝わるレポートです。


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卒業祝い、それはどの卒業生にとっても最も待ち望んだ日です。
わたしは6年生の時からいつも、いつの日か、どんな卒業の日がやって来るのかなぁと想像していました。
3インチのハイヒールと、とびきり美しいチュパを身に着け、みんなの前に続く通路で待っているわたし。。。

そしてとうとう、2015年7月3日にその夢は叶いました。
NHSS(ナムギャルハイヤーセカンダリースクール)に入った瞬間、後輩達が学校全体をすばらしくセッティングしてくれているのを見て心が躍りました。わたし達はとても特別な気持ちになりました。

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それはさらに、わたしたちのための同窓会のようでした。友達はみんな最高の伝統衣装に身を包んでいました。
わたしはとびきり、わたしたちのグループソングを楽しみました。まだわたしの頭の中にその曲が流れているようです。

組み立てられた装飾は、クリエイティブで見たことのない感じでした。
先生や両親とのグループ写真を撮って楽しんだりもしました。
わたしはすべての先生方に感謝する機会を得ることができました。

わたしたちの卒業式の日の思い出に残るものを作りあげてくれたみんなにこころから感謝しています。
私はナムギャルで8年間のスクールライフを過ごしてきました。
だから本当にさよならを告げるのはわたしにとって辛かったです。
NHSSありがとう。
今日、私はナムギャルの出身であることを誇りに思います。

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Graduation’s day celebration,
the most awaited occasion for any graduate.
Since from class 6, I have always fantasied how my Graduation’s day would be one day,
with me wearing the most beautiful chupa with 3 inch stiletto and waiting to catwalk infront of all.
And finally, It all came true on 3rd July,2015 .
The moment I entered NHSS I was thrilled to see how wonderfully our juniors had set up the whole school compound. We felt very special.
It was more like a reunion party for us. All my friends were dressed in their best traditional attire. I specially enjoyed the group songs ,I can still feel that music inside my head.
The assembly decoration was creative and new. I also enjoyed the group pictures we took with our teachers and parents. I got opportunity to thank all my teachers .
I thank and appreciate everyone for making our Graduation’s day a memorable one.
I have spent eight years of my school life in Namgyal ,so it was quite hard for me to bid adiue. Thank you Nhss . Today , I am proud to be a product of Namgyal.