人生のすべてが繋がって今ここに
私が生まれ育ったのは、鎖国時代は唯一世界とつながり、終戦では原爆を経験した長崎です。
異国情緒あふれる街で、被爆二世として平和教育を受けて育ったことが、今につながるのかも知れません。
高校2年生の時に母子家庭となり、経済的理由から大学受験は国立のみでした。運よく第1志望だった首都圏の国立大学に合格しましたが、現実は奨学金を受けながら地元の大学に通うという選択肢しかありませんでした。
在学中はハードルが高い授業料免除の制度にチャレンジし、ほぼ全期の免除を受けることができました。この奨学金と授業料免除がなければ、大学を卒業して現在に至ることはできませんでした。心から感謝しています。
大学卒業後はとにかく年収の高い金融業界を志望し、生命保険のリーディングカンパニーに就職しました。現在も勤務している生命保険の世界は、相互扶助の理念そして社会貢献意識が高く、今の活動に大きく影響を与えています。
就職から12年をかけた奨学金返済には苦労しましたが、ちょうど返済を終えた頃にマザー・テレサの一冊の本に出会いました。そしてマザー自身がその献身的な活動を始めることになったエピソードに、大きく心を揺さぶられました。
それは自分が苦しくても他に与えるという、インドのスラムの子どもの話でした。
世界のために役立つ仕事がしたい
当時はこれまでの人生で一番苦しい状況にありました。
苦しい時こそ始めようと決心し、仕事上の最高目標を達成した年にアジアの子どもの里親支援を1名増やすと決意しました。仕事に打ち込み、里子が2名、3名、と増える頃にはいつのまにか状況も好転していました。
そしてある年、訪れると人生が変わると言われるアメリカのセドナへ旅した時、本当に人生が変わってしまいました。
それは発想の転換でした。人に任せるのではなく自分がやるんだということです。
運命的に血の繋がった子どもは授かりませんでしたが、その尽きることのない愛情と時間とお金を世界の子どもたちへ向けることが、今回の人生で与えられた使命だと気づかされたのです。
世界中に学校を作りたい
2012年1月、世界のどこかで学校を作ろう!とたった一人でスタートした旅はインドへと向かいました。そして、最北部の天空の街ダラムサラで、平和の民チベットの人々に出会いました。そこでは、慈悲文化と利他精神に生きる人々の、輝く瞳と笑顔が待っていました。
そして、学校を作る思いは、世界へ笑顔の虹をかける想いへとカタチを変え、現在に至ります。
「世界を変える仕事をしていきたい」
「認めあうこと」 「分かちあうこと」
「ひとつの地球へ」
『子どもたちの笑顔が輝き出したら、
世界が虹色になった』
特定非営利活動法人Rainbow Children Japan
理事長 石川辰雄