じぶんのものにしようとするこころがなければ、きっと誰もが笑顔になる


 

東京支部長 三村優子

【ダラムサラ&チベット奨学生ミーティング編】

わたしにとって、レインボーチルドレンスタディーツアーでの大切な学びのひとつ、それはチベット問題に触れること。

2度めの訪問となった、
大好きな街、ダラムサラでの数日間。

実はわたしは山より海派なのだ。
なのにどうしてだろう。
青空と雪山のコントラスト、
切り開いた斜面に立ち並ぶ建物のカラフルな屋根、風にたなびくタルチョ、
草むらを駆け回る犬達、、、
このダラムサラの景色は、わたしにとってはもはや完璧と言えるくらいの美しさと安らぎを持った景色だ。
もう一度、またここの空気が吸えて、こころとからだが喜んでいるのがわかった。

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ここダラムサラでは、前回のダライ・ラマティーチングに続き、 大きなイベントに参加できることがわかっていた。

3.10 Tibetan Uprising Day
チベット民族蜂起記念日。
チベット系民族がチベットの首都ラサにおいて、中国共産党の抑圧に対し平和蜂起を行った事件に対する記念日。
この日は世界各地で自由を叫ぶパレードが行われる。

明日、突然日本語は使ってはいけません、と言われたら、
あなたは、日本人ではありません、日本という国は無くなりました、文化から根こそぎ忘れなさいと言われたら。
もしも反発しようものなら、投獄され拷問され、強制労働させられ、死さえ訪れることも不思議ではないとしたら。
子供であろうが、女性であろうが、関係ない。
わたしたちはどうするだろうか?

5000m級のヒマラヤの雪山を、家族と離れ数週間歩き続けて亡命してくる子供たちがいる。
海派のわたしが、ここダラムサラの景色に美しさと安堵を覚えるのは、単なる風景としての美しさだけではなく、誰かの強く生きる希望が秘められているからなのかもしれないと思った。

今回、Tibetan Uprising Dayの日に、わたしにはひとつしたいことがあった。
それは、チベットの民族衣装、チュパを身に纏うこと。
わたしはチベット人ではない。
チベット語も話せない。
仏教に対する深い信仰や知識もない。
だから、日常の一部である民族衣装を身に纏うことで、わたしなりのチベット文化への敬意を表したかった。

チベタン家族が営むお店に訪れ、チュパを作りたいというと、そこのお母さんはとても喜んで、店の奥にいる女の子を呼んだ。
日本でいうとまだ中学生くらいだろうか、透き通るような肌の笑顔がキラキラした娘さんが、『どんな色が好き?』と聞いてくれた。
『あなたにお任せしたい。』というと、少し興奮しながら、数ある中から組み合わせを選んでくれた。
『とても似合うわ!』と姿見鏡とわたしを交互に見ながら、お母さんと娘さんはわたしのチュパ姿を満面の笑みで見てくれた。
スカートの裾あげが必要で、時間がなかったにも関わらず、お母さんは今日中に仕上げてくれると言ってくれた。
『忙しいのに大丈夫?』と聞くと、うううんと首を振って、『今日できれば、あなたはこれを着てアップライジングデイに参加できるでしょう?』と、何も言っていなかったのに、お母さんには気持ちが伝わっていたのが嬉しかった。
本当に本当にありがとう。
これは今回特に心に残った交流のひとつだ。

***

チベット奨学生との交流も、前回よりさらに距離が近づいた気がした。
とてもシャイなチベットの学生。
けれど、胸に秘めた夢や、相手を受け容れるこころの器のようなものは、とてもとても大きくて深い。
そして、ものごとに対して、とてもまっすぐな疑いのない目をしていて、話しているとわたしも学生に戻ったような、そんな感覚になった。
わたしのなかにも、ちゃんと共鳴できる部分があるんだな、と嬉しかった。

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どの国に生まれて、どのような歴史を経験して、
それは魂がみずから選んだのかもしれない。
国と国、国境で区切られた三次元世界での『区別』というもののひとつ。

どことも陸で繋がらない、日本という島国に生まれたわたしたち。
一方、奪われたり弾圧される歴史を辿った国の人々と出逢うことは、
わたしたちにどんなことを教えてくれるのか。

アップライジングデイでチベットの人々が叫んでいた『We are free!!』ということば。
暴力ではなく、自らの命を焼いてまで訴えなければいけなかった人々の体験を、
こうして何かのきっかけで触れることになったわたしたちはそれをどう捉えるのか。

良いこと、
悪いこと、
だけで終わらせるのではなく、

世界は誰かのものではなく、
なにかのコントロールを受けるものではなく、ひとつなんだ、ということ。
わざわざこうして『分かれて』いるのは、
追体験によってみずからを知るということ。
世界を知る、相手を知るということは、
みずからを知ることに繋がっているんだと、改めてわたしは感じた。
これが今回のわたしの大きな学びのひとつ。

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チュパを着た日本人のわたしを、本当に嬉しそうに見てくれたチベットの人たちの笑顔、
わたしは彼女たちが着物を着たとしたら、きっと同じ笑顔になるだろう。

シンプルだけど、それが自然に相手を認め合っている、受け容れていることなのではないだろうか。
じぶんのもの、なんて、本当はこの世界にひとつもないんだ。
じぶんのものにしようとするこころがなければ、きっと誰もが笑顔になる、本当はそうなんだと思う。

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